2013年4月16日(火)
「半顔メイク女子」で「すっぴんがブス!」の共通点。
それは、ズバリ!「
アイメイクが過剰でムダに濃い!」ということ。
昔から私あわほはこの手の女子たちを目にする度に、「時間をムダに費やしてそこまで過剰にアイメイクをしなくてもいいのにね。バービーちゃんやリカちゃん人形だって目がやや大き過ぎてキモイぐらいなのに、それ以上目を大きくしてどうするんだよ、これ」と、心の中でぼやいておりました。
とはいうものの、あわほもメイクをするとなると(注・もうかれこれ5年以上メイクをしていないし、昔から殆んどすることもなかったのだが)、やはり目の部分が一番気になります。
もともと目が細めで、そのままだと服が全く映えないので、メイクの際にはアイライナーをひいたりアイシャドウを軽く入れたりはしておりました。
でもだからといって、目を墨を塗りたくったように誇張し過ぎると、バランスを大いに欠き、お化け屋敷にいる化け物みたいになってしまうので、それは避けるようにしておりました。
このあわほがムダに濃いアイメイクを避けるもうひとつの理由は、うちの母親が正しくそのようなメイクの仕方をしていたことがずっとトラウマになっているから。
うちのドブスな母親はとにかくアイライナーと黒のアイシャドーで目をいらいまくりこの上なくグロテスクで、おまけに口紅が濃いピンクと赤を混ぜたようなケバイ色なので、グロテスクさをさらに拍車をかけるっていった感じでありました。
おまけにへたに誰かから、「肌がキレイだね」って言われたことを真に受けたものだから、ファンデーションを一切塗らず、メイク自体が顔から浮きまくり、見事なまでのアンバランス!
最悪なのが、ケバイメイクと母親の体臭がコラボした悪臭(これはあわほの愛着障害を加速させた)
このようにあわほは、幼少の頃から殊に「ケバイアイメイク」にどことなく嫌な生理的な嫌悪感を持っておりました。
その「ケバイアイメイク」の本質をついた記述を大人になってからようやく発見し、その時はもう目からウロコでした。
以下引用
浜崎あゆみの強調されたアイメイクは「過剰」を意味する。
過剰なるものに引き寄せられ、支配されるのは、心に「欠落」を抱えるものたちである。
あゆの過剰が我々の欠落を埋めてくれる。
引用終わり
ー「愛か美貌か」・ショッピングの女王(4)・中村うさぎ・文藝春秋・2004年ー
これで、あわほはようやく合点がいきました。
うちの母親は自分の顔に対するコンプレックスが過剰で、目なんかミジンコのように細いものだから、知らず知らずのうちに「過剰」にアイメイクを施していたようであります。
逆に浜崎あゆみはアイドルになるくらい美人で、自分の過剰さも意識できるしっかり者の確信犯なので、リアルと過剰さの区別がついているように見受けられます。
浜崎あゆみのようにメイクは「過剰」だけど、自意識はしっかりしていて、他人に対して押しつけがましくないタイプの人は見ていて爽快です。メイクはケバくブスだけど、教師としてとても優秀かつ知的で思いやり深く、ツッコミ力もある20代後半の女教師(中学の担任)のことは大好きでした(彼女は学校生活で唯一あわほの尊敬できる教師である)
かたや問題なのが、自分の「過剰」に無自覚かつ、「欠落」と自分自身のあいだの距離感がゼロな、うちの母親のような非常にやっかいな人間です。
もっともこの世は弱肉強食であるからして、「欠落」を「過剰」で埋め合せることによって武装したいと思うのは、メイクに限らず人間のサガだとは思う。
しかしながら、うちの母親みたいなタイプの人間がやっかいなのは、「過剰」が「欠落」を覆い隠しているっていう内省力が欠如しているため、
元々の欠落自体を感知出来なくなっている点であります。
うちの母親に至っては、未だに自分の欠点が一切分からず、自己批判力ゼロ、リアルと幻想の区別も殆んどつかないイタく救いようのない人間であります。
このような人間であるからして、家族に対する無茶な欲求や幻想の押しつけが凄まじく、家族は全員精神的にかなり疲弊してしまいました。
うちの母親みたいに凄まじくなくても
、「欠落」を「過剰なメイク」で補っているという自覚のない人間は、ムダに過剰なメイクを正当な努力の証として自画自賛しているみたいです(これを称賛する人たちが多いから彼女たちは調子に乗って益々つけ上がるわけでありますが)
「欠落」を埋めるための「過剰」を自覚しないことには、
「間違った努力や期待を他人に押し付けることになる」というのが今回のあわほの結論であります。
だれか、オリのチンケな自論にぽちっと賛同してクリッ!
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