4月といえば入学式。
満開の桜が咲きほころびる中、世の学生諸君は、新しい制服に身をつつみ、バックミュージックには「一年生になったら~、一年生になったら~」が流れ、(さすがに中学校以上はそれはないか・・・・・)新しい学園生活の始まりとなるわけでございます。
で、ここでまず私あわほがつまずいたのは、学園生活以前に「制服」という関門でありました。
あわほは、この「制服」というのが大嫌いで、もう見ただけで吐気がするという有様でした。
主な理由は4つあり、それは以下のとおり。
1、制服の機能性に関する嫌悪
おわほの場合、中学時代はセーラー服、高校時代はグレーのブレザー服でありました。
両方とも着ると重いので、毎日のように肩は凝りまくり、下腹はギュッとウエスト部分の硬い布製ベルトのようなもので締めつけられ苦しくなり、さらに肩はスペンサー式の両ヒモで引っ張られるので、肩こりはさらに悪化するという悲惨な日々を送ってまいりました。
同じ中学の男子諸君は、学ランで首元が苦しいのか、フックを外してグッタリといている子が多かったように思えました。また高校時代の男子諸君は、ブレザーの下に着るシャツの第1ボタンを留めるのが苦しいのか、ブファ~としたマヌケズラをして、第1ボタンを開けっぱなしにしている子が数多くいました。
まあ言ってみれば、制服の機能性からして、自分が制服を着るのも着ている人たちを見るのもイヤ!という感じでごさいました。もっとも、発育期にある学生諸君の体に画一化された制服を強制的に押し込むのは、健康面からしてもよくないように思います。
2、制服イコール登校を意味することにおける嫌悪
あわほは学校でイジメられたり孤立したりしており、また副教科においては、授業についていけないという劣等感もありました。
そんな学校へ行くという行為の第1段階となるのが、制服を着用するという動作でした。
なので、制服を着ようとすると、途端に身も心もずっしりと重くなるという、極度のうつ状態が発生してしまうのでした。(今思うと、その極度のうつ状態を極度の腹痛や発熱に変換する術を持ち合わせていれば、堂々と学校を休むことができたのにと思い、無念である)
3、制服が包有するアンチ通気性
制服というのは、なぜか、どの学校の制服も通気性という側面がまるっきり無視されて、デザインされております。(なぜなんだ~?)
ゆえに、学校中のありとあらゆるニオイが、制服にびったりとこびりつきます。
ほこりやフケが常時飛び交っている教室のニオイはおろか、とくに、昼食時の食べ物や食堂のニオイ、トイレのニオイのこびりつきは、ニオイに敏感な多くの発達障害者諸君に甚大なる被害を、今日も及ぼし続けております。
4、制服が強いる極度の帰属意識
そもそも制服というのは、それを着用することにより帰属意識を植え付けさせ、その学校の生徒にふさわしと思わせるような行動を行わせる、という効用を有しております。
もっとも、有名私立校の制服は、着用することによりDCブランドのようなブランド力を発するため、それ故、必死に自分の子供にお受験をさせる親御さんたちが、あとをたちません。
まあ、あわほは、かようなことに全く縁がなかったのでございますが、制服そのものが大嫌いなうえ、さらに、大嫌いな学校への帰属意識を強制的に植え付けさせようとする制服に極度の嫌悪感を抱いておりました。
とくに最悪だったのは、高校の時の常時制服着用システムでした。
うちの高校は、遠足でも、ショッピングデーでも、いついかなるときでも、「制服!」「制服!」「制服!」の毎日でございました。高校は、とあるヨーロッパの田舎町にあったため、毎週土曜日は制服を着用して、スクールバスに乗って、街中へ買い物に行くというイベントがありました。
しかしながら、ヨーロッパには、中学生や高校生が制服をきたまま街中をうろつきまわるといった、日本のような風習が全くございません。
そんな中、日本人が集団で、しかも休日に、墓石のようなグレーのブレザーを着て、街中を徘徊するというのは、誰の目からみても、奇妙かつ異様な光景としか映らないのです。
なので、私がひとりで歩いていると、からかわれたりして(しかも他校の生徒から!)ほんと嫌な目にあいました。
(注、こんな文化的相違を全く無視したうちの学校は、数年後、見事に廃校となった)
というわけで、制服が大嫌いなあわほでございますが、最近は私服可の高校でも制服を自ら進んで着用する生徒が多い、ということをテレビでチラッとやっているのをみて、意外に思いました。
彼らによると、「他校の生徒がみな制服をきているので、自分たちだけが着ないのは恥ずかしい」とのこと。(注、皮肉なことに、うちの高校とは正反対の理由である!)
この発言をきいて私は、「エ~ッ、ウソ~、シンジラレナイ~ッ!」って感じで、いっぱいになりました。
あわほが学生の頃は、制服無し、あるいは、私服可の学校は、偏差値が内申点ともに高い超難関高ばかりでした。そんな高校に合格する力のないあわほは、とても歯がゆい気持ちで、私服姿で登校する彼らをながめていました。
つまり、当時は、ブランド力のある有名私立校の制服を着ることと同時に、私服姿で登校することも、一種のステイタスだったのです。
ここで誤解のないように一言いいますと、あわほは、なにも一種のステイタスのために、私服姿で登校したかったわけではございません。あわほは、今でもユニクロの服でもアウトレットの服でも平気どころか、化粧すらせず、小学生の頃はイジメッ子から、「おまえは、毎日毎日同じ服ばかりきてやがるな」といわれる始末。
要するに、あわほはただ自分が快適で、楽に過ごしやすい服を着ていたかっただけなのです。服装を人に何と思われるかは、二の次、三の次!
もっとも社会人になると、嫌でもスーツを着たり、女なら化粧をして、ある程度体裁を整えるような格好をしてから、仕事に出かけなければなりません。なので、学生の頃から制服という体裁にがんじがらめにされ、精神を余分にすり減らす必要性は全くない、と私は思っております。
こういうと、若いときから制服みたいなカタチのあるものに慣れておかないと、いざ大人になって就職した際に困る、という意見もあろうかと存じます。
けれど、大嫌いな制服を強制的に着ることにより、精神を余分にすり減らし、ゆえにカタチにはめられることに過剰反応をきたすようになり、社会適応がさらに悪化したあわほのようなケースも一部あるといいたいのです。
確かに、制服がないと毎日の服のチョイスに困る、という意見もあるので、制服は一応ありで私服も可というのが、一番理想的であるかと私は思います。
しかし、空気により、皆が制服を着るので、自分も着ないと浮くので制服を着る、という風潮はどうもいただけません。
なにかあわほの目には、全体主義のファシズムに皆が自ら好んで突進していっている、ように思えて仕方がありません。
このような右にならへの風潮の中からは、クリエーティブで型にはまらない面白さは生じにくいかと存じます。
フェイスブックのCEOであるマーク・ザッカーバーグは、NBAのユニフォームにアディダスのサンダルで仕事をし、スティーブ・ジョブズは、きたならしいジーンズにイッセイ・ミヤケのタートルネック姿で仕事をしていたというではありませんか。
然るに、彼らは自分にとって快適と思えるような服で仕事をし、そうしても許されるような社会環境の中で育った人間であるといえるでしょう。(注、そうでない社会環境下にあっては、ホリエモンのように袋叩きにされる可能性大)
私あわほは、制服であろうが私服であろうが、きちんと自分の意思で選べる自律した社会的環境づくりが、日本の学校にとって必要ではないかと思います。
20年以上も昔、アメリカのとある学校が日本にならい制服を導入しようとしたところ、PTAの反対にあって廃案になったという話を、テレビでみて、あわほはとても感銘を受けました。
また、県内ピカイチの超進学校では、その昔、生徒自治会の力で制服が廃止になったところもあって、あわほは羨ましいなあと思っておりました。しかし、その学校の出身者で自治会にも所属していた友人にいわせると、空気で動く周りの雰囲気にあまりなじめなかったとの事。
とはいえ、やっぱり制服がないのは、やはり羨ましい~!
まずは、外見からオリジナルで、これから徐々に意識改革かなあと。(なんか、その前にあわほの筋金入りニート意識をどうにかせいと、お叱りを受けそうなのですけど・・・・・)
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